血の論理

うちにも「子ども手当」の申請書類がくるそうだ。自治体の広報にあったぜよ。今中学生なんでもらえる期間はわずかであるが、ありがたく使わせていただこうと思う。子どもが小さいときは紙おむつだなんだとものいりだし、大きくなればなったで制服代だ部活の費用だなんだとかかる。あとさ、子どもにはやはり好きなものを食べさせてやりたいし、体が大きくなるので服や靴の買い替えもいるし、遊びにも連れて行ってやりたい。勉強だって、模擬試験だ、参考書だ、ノートだ、なんだとかかるんだ。そんなことは全部自己責任で子どもを持ったんだろうといわれればそうかもしれんが、将来立派な国民に育ってみんなの年金を背負っていかなきゃならんのだから、もらったって罰は当たらんだろうと思うんだがね。
濱口桂一郎氏のブログで、冨江直子氏の論調を引用した、大変興味深い記述があった。駒村康平編『最低所得保障』: hamachanブログ(EU労働法政策雑記帳)

>保険料の拠出に対する対価としての給付という意味を持つ社会保険制度は、その仕組みに内在するものとして法の適用対象が限定される論理をもっている。しかし、現に困窮していることだけを基準として給付される公的扶助は、その仕組みに内在的なものとして適用対象を限定する論理をもっていない。そのため、保護の責任を負う国家は、保護への権利を持つものが「無制限に」膨らまないための、いわば歯止めとして、国籍要件を必要とするのである。困窮する誰もが入りうる「最後のセーフティネット」であるがゆえに、”最後の砦”としての国籍要件を必要とするという、逆説的な排除の論理がここにある。

今日ただいま大騒ぎになっている外国人の養子への子ども手当をめぐる問題も、ある意味ではこの普遍的給付であるがゆえに「血」が問題になるという構造を示していると言えるでしょう。

「誰でも受けられる」ゆえにかえって排除の論理が働く、ていうところに人間の業を感じますな。ずるして得をする人間がいるんではないか、とくに外国人ならやりかねんて理屈かなと。自分の分け前が減ったり増えたりするわけではないのに、なんかむかつくーてこと。外国人でも日本で住んで一定の収入があれば、所得税やら住民税やら払ってるし、「住民」として扱われてしかるべきと思うんだけどな。じゃ、年をとったり病気になったりして、所得税も住民税もはらえない状態になったら、いさぎよく「住民」であることをやめるか?っていったらふつーやめたくはないかと。潔くやめるなんて言ってる人見たことないなあ。

今回の子ども手当についていえば、本当は「中学生以下の子供のいる人だけもらってずるい!」と言いたい人が多いんだろうけど、子もちに面と向かってはそう言えないので、外国人をだしにして愛さを晴らしてるのかなと思ったりしますね。そんなことリアルで言ったりしたら、「じゃ、子ども産めば?」とか「養子をとれば?」って話になって、一朝一夕でできやしないのは明らかだもんね。